牛後ちょっと前

考え事をしています。ときどき読書メモ

夜のチョコレートを読んだ

今週のお題「読書の秋」

 

森瑤子「夜のチョコレート」の存在を思い出したので書きます。

なにがきっかけかはあいまいなのですが、たぶん古本屋さんで森茉莉と並んでいたので間違ってまとめて買ったものと思われます。森瑤子の本はこの一冊しか読んでいないので、普段どういう文章を書いていた人なのかはまだよくわかっていないのです。ですので、おかしな解釈や間違った作者への知識があっても見逃してほしい…。

 

単行本発行時点で平成2年、文庫化でも平成4年なので、出てくる固有名詞はさすがにちょっと懐かしい感じです。そもそも私が読んだのも2年くらい前です。

(社会の)理想的な女の象徴に浅野温子が、女子大生がアウディBMWに(これは文中でもパパに買ってもらった、と述べられているけど)乗っているとか、そういう単語がちょこちょこ出てきます。

それで、書かれていることはなにか、というと、日本の品のない若い(男)女についての批判と、啓発です。ある程度「当時の」という冠言葉が付くけれど、教養ある人が書いているので冷静に、詳細に人を観察しつつ、一貫して「品のある大人」としての考え方、立ち振る舞いについて述べられています。

中身の空っぽな若い女の子、というのが基本的に批判の対象となっていますが、読んでいる限りだとあまりそういう「空っぽな女の子」への問いかけという感じはしませんでした。というか、そういう人はこの本を読まないと思う。

さて、空っぽとはどういうことでしょうか。

外見は一番外側の内面である、とはだれの言葉だったか、最近は桐生つかさ社長の発言が有名ですが、人間の内面はたまねぎのように何重にも連なるレイヤーで構成されている、と私は思います。たまたま(たまねぎだけに)芯に近いところを見せているときに、裏表のない人だとか、正直な人だとか、そういう言い方をするのでしょう。あるいは、レイヤー数が少ない人。一番上のレイヤーが、すべての人に平等に見せられる「社会に参加する自分」として、整理された部分です。

マズローの五段階欲求の一番下が生存欲求であるように、人間の芯の部分で考えていることはせいぜい「長生きしたい」「子孫を残したい」「楽しく暮らしたい」くらいのものです。そこから、「健康を保つために運動したい」「魅力的な容姿になって素敵な異性と知り合いたい」「仕事を頑張ってより多くの給料を手に入れたい」とレイヤーが重なっていくのであり、外面がいい人というのはある意味一番洗練された存在だと思います。完璧によくできた自分をスキなく見せられるというのは、ほぼ生き物として完成されているという。

ただ、そういう「外面のい人」は実際のところ「外面だけがいい人」と、ぱっと見で区別がつくか、というのがあります。外面だけがいい人こそ、この本でやり玉に挙がっている「空っぽな若い女」なわけです。

外見は、いい服を着たり、髪の毛や化粧を整えたりすれば、ある程度つくろえるでしょう。私もスーツを着てきちんと化粧をしていると、周囲の(普段から身なりに気を使っている)人たちに紛れることができます。でも、私は普段大雑把な化粧しかしない、すっぴんのほうが多いし、妙な柄のTシャツにジーンズ、みたいな恰好ばかりしています。擬態と同じです。

でも、服と化粧がきちんとしている人が、ぼろぼろの靴や服装と合っていないかばんでいると、とたんに「だらしのない人」に見えてきます。

ある日、全身カジュアルっぽいゴシックファッション女子学生が、履きつぶしたスニーカーやよれたバッグで学校に来ているのを見たときはさすがに、自分のことを棚に上げて「ダサいな」と思いました。車で来て、ペダルが踏みにくかったのかもしれません、たまたま教科書をたくさん持ってきたのかもしれません。でも、服がダサいというより、そのちょっとしたことに気を使えない部分がダサいと思ったのです。それならまだ、おしゃれではないかもしれないけど清潔な服を着て、リュックサックに教科書を詰めて、休みの日にどこかへ出かけると自分の好きな格好をする、高校生までの制服スタイルでもいいわけです。

この本の当時は肩パッド全盛期で、みんなワンレンにボディコン、タバコをふかして外車を乗りまわす…ような人のことが取り上げられているけれども、その辺は時代によって変わっていくので、今だと「インスタ映え」みたいなところがテーマになるのでしょう。

お祭り会場で何度電球ソーダの出店を見たか、真夏にファーのサンダルで闊歩する、黒髪ストレートロングの暑苦しい女の子、秋になればまた違うトレンドで、1年後には違うライフスタイルで話ができます。時と場所が変わっても、中身のない人はいなくならないからです。中身のない人、空っぽな人が、流行を踏み倒していくのです。(別に流行に乗るのが悪いのではなく、主体性なく、みんながやっているから、とか、おしゃれっぽい自分に見せたいから、と流行のうわべをなぞる行為のことです)

 

いい服を着ていれば、いい服を着るだけの収入と美意識のある人に見える、それは本当のことです。きちんとした自分に見られたいからきちんとした格好と立ち振る舞いで生活するのは当たり前のことです。であれば、その「きちんと」にほころびがないように、内内の、下のレイヤーを組み立てていくべきです。というのが、私がこの本でふむふむとなったところを、かみ砕いて得た解釈です。

 

秋の夜長に、ということですが、178ページなのでサクッと読めるはずです。文体も整理されていて、読みやすかったので、作者の「知的階級っぽさ」が気にならなければ楽しく読めると思います。

 

夜のチョコレート (角川文庫)

夜のチョコレート (角川文庫)

 

 

 森瑤子さん、いま調べたらこの本が文庫化されて1年もせずに亡くなっているのですね。文からパワフルというか、バイタリティにあふれている印象を受けたので、なんだかびっくりしてしまいました。